「ワタシの今の気持ちに似合うカクテルってありますか?」
今夜、グラスに映るのは切ない笑顔。
都会の孤独の中で、出会った大切なものを掴む力を失った二人。
決められない女と流れに乗ろうとする男の、ちょっとビターな恋愛ミステリ。
第一章 カミカゼ
バーテンダーという商売は時に面倒な頼まれごとをする。
午前二時を回り、終電後に寄ってくれる客ももうほとんど期待できない。バーテンダーの芥川は、いつのもように、店じまいにとりかかった。カウンター脇のボウルに入れてあるレモンとライムを数え、カクテルに使うフレッシュフルーツの状態を確認する。明日、開店前に調達するのは、ラフランスとマスカットあたりだろうか。ミントを濡らした新聞紙に包んで冷蔵庫にしまい、氷を冷凍庫に移してしまえば、ひとまず作業完了。あとはBGMにしているヨーヨーマのCDを止め、あるのかないのか、あえてわからないようにそっと戸口に置いてある小さな看板のライトを落としてしまえば閉店、そんな時刻だった……。
「こんばんは、まだやってる?」
大塚由美子が久しぶりに顔を見せたのだ。
ボティラインにしっかりフィットした黄色いノースリーブ。ヒップラインは大きく膨らんでいるのに、ひざ上でキュッと絞り込まれたスカート。チューリップの花を逆さまにしたような出で立ちは、業界人が多いこの代々木上原でもなかなかお目にかかれないほど個性的なファッションだ。
L字型カウンターのコーナー、七つしかない席の五番目。店の一番奥のポジションにごく普通に由美子はたどり着き、スツールに腰掛ける。その一連の仕草はまるでオフィスの自分の席に座るかのようにためらいがなく自然だ。一年以上立ち寄らなかったわりに、彼女は常連のように振る舞う。訳ありのオンナだから、この時間に現れるのは正直、大歓迎とはいえない。そんな気配が顔に出ないように、乾いた笑顔を作って、芥川はおしぼりを差し出した。
「いらっしゃいませ。今夜は校了?」
「ううん、校了日じゃないんだけどね。クライアントのレセプションに出た後、会社に戻って、コーディネートチェックをしてたら、こんな時間になっちゃって。八時ごろに軽く食べちゃったんだけど、寝る前に一杯だけ飲もうかなぁって」
「思い出していただいてありがとうございます、随分とご無沙汰で」
芥川が少しおどけて言った。
大塚由美子は大手出版社に勤務している編集者で、そこそこ有名な女性ファッション誌を担当している。実のところ、雑誌の発行スケジュールなど一介のバーテンダーとしては把握なんぞしている必要などまったくないのだが、彼女が夜遅く独りで顔を出すのは、昔から校了の日が多かった。だから、そんなふうに声をかけることが習慣になっていた。
しなやかな動作で入ってきた割に、カウンター越しの由美子の表情は、いまいち冴えない。正面から見ると、立ち上げるべき前髪が左右に流れ、額のファンデーションも落ちかけている。今日は彼女にとっても長い一日だったようだ。
「何になさいますか」
「そうね、さっぱりしたのが飲みたいかな。でもアルコールはほんのちょっとにして。明日も早いし」
「絞りたてのライムジュースがあるけど、使っていい?」
「お願いするわ」
絞りたてというのは方便で、開店前にスクイザーで果汁を絞ってコーヒーをドリップするように綿で濾しておいたものだ。レモンとライム、そしてグレープフルーツの果汁は、必ずストックしておく。この果汁の作り置きがなければ、一人でやっている店でカクテルの注文をさばくことはまずできない。風味が落ちるので今日中に処分しなくてならなから、閉店間近に来た客がカクテルを頼むと、どうしても柑橘系ばかりを薦めてしまうのだ。
芥川は、冷凍庫からキンキンに冷えたストリチナヤを取り出した。シェーカーに氷を放りこむと、ビーカーに入ったライムジュース、コアントロー、そして先ほどのストリチナヤ注ぎ、さらに何かを加えて蓋を閉じると、おもむろに上下に振り始める。
シェークの仕方でバーテンダーの師匠がわかるともいわれるが、芥川のシェークはあくまで独学。攪拌することで空気を入れ、まろやかにするのか、それとも急速に冷やすのか、出来上がるカクテルをイメージして振り方を変える。素早く強く振る場合もあれば、大きなストロークでゆっくり振ることもある。由美子のために作るこの一杯は、強く混ぜる必要がない。芥川は脇を締めて胸元で四、五回大きく縦にシェーカーを揺らした後、丸い氷を入れたロックグラスにその液体を注いだ。
「どうぞ」
「おいしい。相変わらず私の飲みたいものがわかるんだね」
作ったのは特製のカミカゼだ。本来のレシピはウォッカ、ライムジュース、コアントローが1:1:1の割合でシェークされる。コアントローの爽やかな苦みとウォッカのアルコールのスキッとした切れ味が売りのカクテルだ。だが、今日はウォッカにくせのないストリチナヤをいつもの半分だけ使い、コアントローもほんの一たらしに減らして、実のところ中身はほとんどライムジュースだ。しかもシロップを入れて甘くしてある。ゆっくりシェークした分だけ冷えて一口目にシロップの甘みを感じない。そのぶんさっぱりしている。
「まあね。由美子さんが、飲みたい気分だとしたら、ハイテンションで友達と一緒来るか、嫌なことがあって軽く愚痴をこぼしに来るか、どっちかだもんね。多分、今夜は愚痴の日、はけ口要員ですよ、元カレとしては」
「やだ。バレバレじゃん」