実は「味」のこと、全然わかってません!
告白します。
実は私の味覚はそんなに鋭くない。
料理やお酒のことを取材して記事を書いたり、本を作ったりしているのだが、正直、ビールと発泡酒の違いを言い当てるのは難しいだろうと思うし、大吟醸と純米吟醸の差やカベルネ・ソーヴィニヨンとシラーの違いもよほど意識しない限り見抜くことは無理だ。だから、味に対する自分の評価は信用していない。ただ、そんな私でも、特別に旨いものは判る。
別格で旨いものは、例えば、名の知れた京都の和食店の椀物。これは旨い! 当たり前といえば当たり前で、一食に1万円近く投資し、ある程度の環境下で食べる和食というのが、不味いとなれば、それはそれで困ってしまう。
逆にそれなりに我慢できて旨いものもある。化学調味料がたっぷり使われているであろう屋台のラーメン、あるいは、それほど良い油は使われてないだろうけど、東南アジアの海辺で食べる揚げたての魚介などは、多分身体にはよくはないのだが、雰囲気も含め、最初の一口、その瞬間は実に旨い!
なんでも野球に例えてしまって申し訳ない(昭和世代の私は、野球に例えるのが最も一般的で分かり易いと誤解している)のだが、前者の「和食の粋を集めただしの味」を打者の手元で伸びる160キロの豪速球、後者の「ジャンクな屋台の味」を球速85キロだが揺れながら落ちるナックルボールだとすると、どちらも打てないが、めったにお目にかかることもないという点で一致していると思う。両方とも「そりゃそうでしょ、誰が見ても打てんわ、そんな凄いボール」と認めざるを得ない特殊球である。つまりは絶対的価値なのである。そういった意味で、この手の料理は、味わうのはもちろん、伝聞で見たり聞いたりするのも単純に楽しい。実際、フェイスブックやツイッターで即時にネット空間で高い支持を得るのは、こういう誰もがすぐ反応できる分かり易い味の表現(=価値)なのだ。
しかし、今一度立ち止まって考えてみたい。人間が一喜一憂するのは、分かり易さがすべてだろうか。毎日食っていたら飽きるだろう《特殊な》料理に、誰が長い間共感し続けることができるだろう。誰もが打てないようなすごいボールは、周囲からすれば、ある意味「未知の領域」として分析や評論も似たり寄ったりになるしかない。つまり、喉元過ぎればなんとやらで、印象がすべてというか、一過性に終わることが多い。
一方で本当のところ、気になり、手に汗握るのは、そんな手の出しにくいボール(料理)ではなく、アウトコースを狙った速球がシュート回転して甘く入ったり、コントロールもないのに内角ばかり攻めすぎてボールカウントを悪くし、みえみえのスライダーを置きにいったときのボールであり、その際の打者と投手のぎあいである。時には打たれ、時には打ち損じる微妙なやりとり。長いペナントレースで幾度となく繰り返されるフツ—の打者と投手、そしてバッテリーやベンチの駆け引き。それこそが野球ファンの醍醐味であるようにだ。
話を「食」に戻そう。我々「食」に何らかの形で携わる者にとって、味わいの面白さとは、第一印象で勝負付けが済んでしまうような特殊な状況で生まれるものではなく、長い人生の一コマ、日々の食事の一瞬一瞬に宿るものであり、経験を含めた自分の舌で、感じるものだ。だとすれば、それが、いかに自分とって刺激をもたらしてくれた味であるかは、本人が自身の表現方法で伝えるしかない。
《これが美味しいよ!》、《今、このお酒がブームだよ!》→《噂通りおいしいね》、《流行するだけあってみんな飲んでるね》→《いいね!》
この手の「旨さの拡散」は、今となっては、ごく当たり前だが、実に即物的で奥行きに乏しい。影響力のある人間が恣意的であろうがなかろうが、「旨い」といったものが、無批判に受け入れられる、あるいは露骨に炎上という形で批判の対象と化す。そこには、その味がプロの技を通して、語られる伏線がほとんど見られない。
【バントの構えをしているピッチャーになぜかカウントが稼げず四球を与えて、満塁にしてしまい、バットを短く持った非力な一番バッターの初球に外角の半速球でストライクを獲りにいってライト方向に簡単に打ち返されるドラフト3位で入団した高卒3年目のピッチャーはなぜ、一軍半のまま、勝ちゲームの大事な局面を任せられないのか】といった、話せば長くなる酒場の与太話のような、すぐには結論の出にくい、でもそういうこともあるかもしれないという、半分騙されたかのような説得力のある話。他人にとってはどうでもいいような話だけど、首を突っ込んでみるとなんとなく共感を得られるような「味」の話こそが、今、食の世界には求められていると思う。それには、伝える側が、《これ旨かった》、《これ食べてみてほしい》、《俺はこの味がわかったぞ》、といったような感動や伝えたい何かを、筆やヴィジュアルに託して興味を引くように表現し、読む者を納得させなければならない。誰もが体験している旨さを、独特の発想や遊びでジャンプアップさせ、チョビッとだけ、振動させる。それは、まるで珍重される酒の肴がわずかな量で酒豪を唸らせるかのごとく多層的で深い味わいを持っている。そして加えるならば、ルイ・ロデレール・クリスタルを前に眉ひとつ動かさぬアンチ権威主義の独特の立ち位置こそ、「酒眉」の真骨頂としたい。
正直、受け入れられるかどうか、そして続くのかどうかは、(先ほど例に挙げた野球の話が思いのほか分かってもらえないのと同様)ちょっとわからない。しかし、酒好きがついニヤリと頬をゆるめてしまう、おおらかで優しい酒の話を楽しみながら届けたいと思うのだ。