酒の雫 外伝−予告特別編−
その男、名を「燗付チョー助」と言った。
むろん、本名ではない。だが、誰もがかれをそう呼んだ。
その名前には謂れがあった。彼は酒飲み──日本酒呑み──の中では知られた男だ。どんな酒を持ってしても絶妙な燗をつけた。温度で言うのなら一度刻み、いや、それだけではない。ときに、一気に飛びきり燗までつけた酒をすかさず冷水で締めるように冷やし、あるいはあくまでゆっくりと日向燗に湯煎をつけた。季節や相手の顔色も当たり前のように燗付けの一部としていた。
「シみるねえ。俺の好きな酒なんだが、ほかではどうしてもこの味が出ない。しかも二口目、三口目と、もっと体に馴染んでくる。うん、堪らねえ」
突き出しにクミンと唐辛子でスパイシーに調味された羊肉のミートボールを供するチョー助の目元が、心なしか嬉しそうに綻んだ気がする。
燗酒を口にしてほっと表情を緩める客の姿や息づかいが何よりこの男の好物だった。その一言でスイッチが入ると、クン!とギアがアップするように燗の技はさらに冴えを見せたものだ。
「体がほっとしたらあれだな、次は同じやつを冷やでもらえるかな」
「悪いがお客さん、帰ってくんな」
一転、哀しそうな目つきとなったチョー助の口から出た言葉は厳しいものだ。初めての客にしてみれば気の毒と言ってもいい。
男が「燗付チョー助」と呼ばれるようになった理由は、実は想像を絶した燗付けの腕前を持つからだけではない。かつて若かりし頃、チョー助は酒を飲みに飲んだ。もちろんあらゆる飲み方で酒を愛で、多くの人と杯を酌み交わした。そして彼が一世一代の恋に落ちたのもその頃だった。
その女の美貌と飲みっぷりはチョー助をして惚れ惚れさせてやまなかった。チョー助はその女と何度も杯を交え、挑み、だがしかし敗れた。手酷く打ち砕かれた。
その女が愛したものこそ冷や酒だったのだ。徹頭徹尾。燗には見向きもせずに。
以来男は冷や酒を飲まなくなった。むしろ憎んだかもしれぬ。(あんな体を冷やすもの……)。燗酒こそすべて。オール・ニード・ミー・イズ・カンザケだ。 人はどういうか知れぬ。でもそれがチョー助と彼の技を生んだのだとしたら、やはり酒飲みは神に感謝すべきだろう。
「奥能登の白菊。少し熱めの燗でもらいたんだけどさ、いいかな」
新しく入ってきた客と目が合うと、チョー助は無言で11BYの瓶に手を伸ばした。これが新しい物語りの始まりであるとは、まだ両者とも気づくべくもない。