銀座のマダムと一人の女優に憧れ
「何かやり残していることはないか?」
36歳、独身。職業はフリーランスの文筆家。取材をして書きたいときに書き、休みたいときに休むという勝手気ままな生活を送っている。が、人生を80年とするなら、その折り返し地点に差し掛かってきたからだろうか。例えば電車の扉にもたれて、窓に映る疲れ顔の自分と視線がぶつかると、ふと冒頭のお題なぞを我が身に問いかけてみたりする。 やっぱり一度ぐらいは結婚したい、できれば出産も経験しておきたい、生まれてこのかたマンション暮らしゆえ、住めるものなら一軒家に住んでみたい……。そうした現実的な願望と並列して、ある思いが私の脳裏を掠める。それは、〝銀座のバーで働いてみたかった〟。
ちなみに、バーとはスタンド・バーではない。マダムがいるクラブのことだ。下っ端のホステスから始めるにはすでに薹が立ちすぎているし、そもそもビジュアルからいって厚かましい話をしているのは承知の上。それでも、私はかねてから銀座のマダムに強い憧れを抱き、一度はその世界を覗いてみたいと考えていた。大学生の頃はアルバイト情報誌をめくり、〝銀座のクラブでママのお手伝いをしませんか〟という文句を見つけると蛍光ペンで線を引っ張ったものだ。結局のところ勇気が出ず、未経験のままで今日に至るのだが。 そんなわけで、銀座で出勤途中の着物マダムに遭遇すると、いまだに私の胸はときめき、そしてチクチクと疼く。
さて、これには一つの理由がある。
今を遡ること20年前、高校生の私は、老舗の名画座として名を馳せた並木座に通い詰めていた。安室奈美恵と同世代で、ルーズソックスを履いていたような女子高生が何をきっかけにその一歩を踏み出したかは定かでない。
が、はっきり記憶しているのは、当時の私は同級生たちから〝アンニュイ〟と称されるほど物憂げな空気を撒き散らしていて、実際に何をするのもかったるかったということだ。振り返れば、思春期にありがちな無気力状態だったのだろう。なんとか改善しようとファッションやヘアメイクの研究に勤しんだり、男子校の文化祭でワーキャーしたりと試してみたが、どれもこれも上手くはいかなかった。
そうしたなかで、唯一、私を灰色の日々から救い出してくれたのが、並木座で出合った日本映画の名作たちだったのである。
小津安二郎、溝口健二、黒澤明など戦後を代表する日本映画の名匠が描く世界は、私が目にしたことがないものばかりで(といっても、だいたい生きている時代が違うのだから当たり前なのだが)、私は大いに惹きつけられた。そして、いつのまにか放課後になると銀座へ足を向けるようになっていったのだ。
80席ほどの劇場にひしめくのは年配の観客ばかりで、私のような小娘は完全に浮いた存在だったが、そのことが、かえって私を落ち着かせてくれたことを覚えている。
ところで、私が特に好んで鑑賞したのは、〝女性映画の名手〟と謳われた成瀬巳喜男監督と昭和の大女優・高峰秀子がタッグを組んだ作品群だった。
二人の代表作としてよく名前が挙がるのは、林芙美子原作の『浮雲』(昭和30年)だが、個人的な一押しは、その5年後に公開された『女が階段を上る時』。戦後、日本が復興を果たして高度成長期に進みつつある頃、銀座の夜の街で懸命に生きる女たちに焦点を当てたもので、高峰秀子は銀座のバー「ライラック」の雇われマダム・圭子に扮している。
劇中のナレーションによれば、当時、銀座には数百件のバーが軒を連ね、1万5000~6000人の女性が働いていたらしい。彼女たちは夜の11時半から12時の間に店を出て、家路につく。車で帰るのは上等、電車で帰るのは下等、男と一緒にしけこむのは最低と紹介される。銀座の女は男を手玉に取っても、男のおもちゃになってはいけない、というわけだ。
圭子は根っからの水商売上がりではない。喫茶店で働いているところをスカウトされたという設定だ。気位が高く、客に卑屈になることができないから、体を張ってもてなすようなことはしない。売れっ子が引き抜かれたり独立したりして、上客を取られ、店の経営が行き詰まっても圭子は毅然とした姿勢を崩さない。「自分が店を出してやるから妾になれ」という実業家の誘いもやんわり断る。過労がたたって胃潰瘍になった彼女は弱気になって、結婚詐欺に引っ掛かったり、密かに想っていた妻子持ちの客と一夜を共にしたりもするが、ラストではまた背筋を伸ばし、銀座のネオンの中へ戻っていく。
その姿を見て、かつて私が16歳なりに感じたのは、「人間は生きている以上、前を向きつづけなければならない」ということ。バーへ出勤する女の後ろ姿には、自分の身に起こる悲哀をすべて受け止め、その上で現実と向かい合って生きていこうとする覚悟が感じられ、あんな大人の女性になりたいと焦がれた。
だから、私は銀座のマダムを見かけるたび、出陣する武士のごとく勇ましい圭子と、それを見事に演じてみせてくれた高峰秀子という女優を思い出す。そして私が弱腰になっているようなときには、「したたかに生きなさい」と激励されているような気持ちになるのだ。
話は変わるが、ミーハーだった高校生の私は高峰秀子さんにファンレターを送った。『女が階段を上る時』の圭子に憧れて、彼女が纏っていたようなキリッとした縞の着物を成人式に身に着けたいと図々しくも相談させていただいたのは、私にとって宝物のような思い出である。
そういえばあの映画が公開されたのは昭和35年。当時、高峰秀子さんは36歳でいらっしゃった。現在、私もその年齢になっている。
彼女がたしかな演技力で観客を沸かせたように、私が文章を以て読者を納得させている自信はまるでない。だが、書くことは伝えること、遺すことと信じ、これからますます精進していこうと気を引き締める次第だ。
あ、もう一つ、やり残していることを思い出した。今まではなかなかできずにいたが、これからは私の視点で、少しずつ昭和の日本映画を紹介していこう。ここに、勝手に宣言させていただく。
というわけで、次の『酒眉』でも筆を執ることが許された暁には、同じく成瀬巳喜男監督と高峰秀子がコンビネーションを組んだ作品『放浪記』(昭和37年)について触れてみたい、と考えている。