酒の効用について
中洲家は筑前秋月藩にて代々家老を務めていた家系であった。幕末の頃、十一代当主・と、学に秀で、長州藩の吉田松陽とも交流のあった家臣・は、さまざまな分野に関して、武士の有り方やこれからの日本の行く末について議論し、その内容を『』として書き留めさせていた。
今回発表するのは、その中の『 』なる文書。これは、二人が酒について語ったものであるが、内容が極めて危険なため、いままで公開はおろか、存在さえ秘匿されていた、いわば禁書である。中洲次郎が特別に持ち出したものを現代語に近い対談形式で翻訳し、初めてその衝撃的な内容が明らかになった。
中洲新右衛門(以下新右衛門) さてもさても、そちに聞きたいことがござる。
薄野余市郎(以下余市郎) 何、酒の効用を知りたいと申されるか。
新右衛門 左様。酒を呑むと笑い上戸、泣き上戸、怒り上戸……と隠れておった喜怒哀楽が如実に出て参るな、これ如何に。
余市郎 皆これ、千差万別にて候。鉄仮面の如き無愛想者が相手構わず接吻したり、はたまた、絵に描いたような腑抜けが上役を怒鳴りつけたりし申す。急に泣き崩れる者、突然笑い出す者。およそ正反対の心柄が酒によってあぶり出され、ときに大いに驚くこととなり申す。酒は人の心根の箍を緩めてしまう力があるのでござる。
新右衛門 うむ。意識が弛緩してしまうのであろうな。まさに武士にとって「酔い」は大敵じゃ。脇が甘もうなって、敵に隙を見せることとなる。
余市郎 御意にございます。酒は呑んでも呑まれるなとは、よく言ったものでござるが、太平の世も長ごうございます。もはや、脇の甘さに付け入る猛者も少のうなったかと。
新右衛門 されば、酒を呑むと好色になる者もおるが、これは如何に。
余市郎 男女問わず、そのような不届き者も多くございますな。されど日本人は元来、酒にも性にも寛容な民にて、成敗に至ることは稀にございまする。なにしろ天の岩戸に籠られた天照大御神様がお出ましになったのも、酒と女によるお祭り騒ぎに誘われてで、ございますゆえ。
新右衛門 酔って騒ぐ者を単に不届き者と、決めつけるわけにも参らんというわけじゃな。
余市郎 左様。己の種を残すためか、悦楽に浸るためかわかりませぬが、昔は、祭りのときの無礼講などでは闇まぐわいもしておったらしく。酒に酔うということは、どこか獣の本能とつながっておるのかもしれませぬな。
新右衛門 さすれば、どこぞの後家が、妻帯しておる幕府の役人と路上で接吻を交わしておっても、酔っておっただけ、軽率な真似をして、あいすまぬといえば、お咎めなしの世じゃからな。正直、酒は便利に使おうと思えば、いくらでも便利に使えるものじゃ。ところで、本日、お手前が持参した「うおとか」とは如何なる酒ぞ。
余市郎 「うおとか」は、おろしあ国の焼酎でござる。寒い北の最果ての酒なれば、喉を焼くがごとき強き酒精。されど、あくる日に酔いが残らぬ薬酒にて候。
新右衛門 そうであれば、南蛮渡来の葡萄酒とはまた趣が異なるようじゃの。
余市郎 いかにも。甘い酒ではござらん。
新右衛門 それではいただこう。おっ、これはなんとも。薬草酒のようじゃ。確かに身体が無性に温こうなるわ。まぁ、近こう寄れ。お主も一杯召されよ。
余市郎 かたじけのうござる。
新右衛門 お蔭で血の巡りがようなった。心の臓が脈打っとるわ。
余市郎殿、もう少し、顔を寄せんか。口移しで飲ませようぞ。
余市郎 戯言を。拙者あいにく男色の気はござらんゆえ。
新右衛門 そう申すな。先ほどよりお主の視線がわしの股間に漂っておることを見逃してはおらぬわ。儂の熱くだぎった肉棒をはやく頬張りたいであろうに。ほれっ。
余市郎 うぐぐっ……。
新右衛門 酒には毒消しの役割もあると申すぞ。口の中で精を放っても安心じゃな。
余市郎 うぐぐっ、ぐぁぁっ……。
新右衛門 さて、お次は尻の穴じゃ。 余市郎 ご家老、それだけはなにとぞご勘弁を。ご乱心召されたか。 新右衛門 いや、少し酔っておるだけじゃ。酔狂よ。
余市郎 酔って女を求めるは得心でき申す。されど男の尻をお求めなさるとは。
新右衛門 女は力づくで手籠めにもできよう。されど男は力づくでは難しい。代わりに別の力を働かせるのじゃ。むしろ、そちらの力ほうが逃げられんかもしれんのう。男は権力に逆らえん。お家の大事となれば尻を差し出す者も多いのじゃ。 余市郎 戦場において男が男を食い物にするというのはそういうことでござるか。
新右衛門 いかにも。戦好きはその女々しさを隠したいがために、敵に無謀な挑発を繰り返し、戦わぬ相手を辱めることによって、誇りを奪い、支配欲を満たすのじゃ。
余市郎 なんと、醜い。武士の風上にもおけませぬ。
新右衛門 果たしてそうかの。飲酒にせよ、男色にせよ、寛容に受け止めれば、それを禁忌とせず、認めることができる。だが非寛容であれば、禁忌は禁忌のままじゃ。その禁忌を侵すことに快楽を見出す輩が必ず生まれる。どちらが正しいのかは、儂もわからぬ。要は世の中の有り様であり、人の心の持ちようじゃ。
余市郎 されど、ご家老。このような行いが公になればあなた様もただでは済まされませんぞ。
新右衛門 心配は無用じゃ。酒の力を借りて情を交わすというのは、古今東西老若男女を問わずよくあること。儂も昔、殿の一物を咥えたからこそ、この地位にある。すべては酒が忘れさせてくれようぞ。
この文書は、ここで終わっている。問答の結末は書かれていないのだ。実は私には北海道に薄野次郎という弟がいる。この文書とそれがどう関係しているのかはわからない。ただ今も昔も、酒というものは、人を幸せにする力を持っているからこそ魅力的であり、一方で権力と結びつけば危険であるということだ。酒税改正、イスラム原理主義、集団的自衛権、セクシャルマイノリティ、パワハラ、金と政治など、現代社会に渦巻く問題も、酒が文化である以上、酒の周辺でも起きている。酒がすべてを忘れさせてくれるのか、それとも……。